伊場仙430年の歴史


伊場仙について


天正18年(1590年)

徳川家康 秀吉より関東八州を与えられ、三河岡崎から江戸へ移る。江戸の町づくりに着手。江戸城下町の構築の際に上流の川を埋めて水路に開削。


伊場仙の初代・伊場屋勘左衛門の父親は、三河国岡崎で松平家の治水・土木工事の職人をしていた。徳川家康とともに遠州伊場村(現在の浜松市伊場町)に赴き、初代 伊場屋勘左衛門(いばやかんざえもん)が誕生。正確な創業年が不明なために初代の 生年を以って創業年とする。

遠州伊場村

現在の静岡県浜松市中央区東伊場町

慶長8年(1603年) 江戸幕府創立

徳川家康 征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開く。

伊場屋勘左衛門は、家康の江戸入府に伴って江戸へ移り住み、開拓工事に携わる。当時、開拓した土地は下賜(かし)されたため、この地に落ち着き、商いを始める。店名は、ゆかりのある伊場村からとった。

創業当時は和紙、竹を扱っており、御用商人として、籠やつづらなどにも用いる材料や和紙を幕府に納めていた。
和紙は漉いていたのではなく、土佐や阿波など紙漉きの産地から仕入れ、竹は房州産のものを使用していた。

明暦3年(1657年)

明暦の大火(振袖火事)で、江戸の大半が被災し江戸城天守も焼失した。江戸時代最大の被害を出した大火であり、江戸の都市計画や消防制度に大きな影響を与えた。この大火により被災し、古文書など焼失する。

元禄13年頃(1700年頃) 江戸中期

付加価値を高めようと、竹や和紙を材料とした団扇の制作を始めます。これが江戸団扇と呼ばれる商品になります。伊場仙の団扇の製造は、江戸中期。1700年代のころからの商い。
江戸団扇と扇子を扱う団扇問屋として江戸幕府御用達の版元団扇商として江戸城に出入りするようになる。

江戸時代の日本橋周辺

※日本橋堀江町には、堀留川入堀両岸という入堀に囲まれた河岸街がつくられ、それぞれの特徴を示す名がつけられた。日本橋堀江町の団扇河岸や小舟町の米河岸や鰹河岸である。(「日本橋繁昌記」より)

江戸・日本橋堀江町は現在、小舟町

寛政4年(1792年)

伊場屋仙三郎(いばやせんざぶろう) 堀江町1丁目に団扇問屋を開業。

江戸後期

団扇の浮世絵を貼り付ける団扇絵が流行する。
団扇に浮世絵を本格的に扱いはじめる。当時、人気浮世絵師の初代歌川豊国(うたがわとよくに)を筆頭に、天才絵師の国芳(くによし)、同時代の広重(ひろしげ)らの版元になり、江戸中に「伊場屋」の名前を広めた。

文化元年頃(1804~1818)から幕末まで

伊場屋久兵衛(いばやきゅうべえ) 屋号「伊場久」「錦政堂」 堀江町2丁目 団扇絵の作品が多くみられる。

文政(1818~1830)から明治まで

伊場屋仙三郎(いばやせんざぶろう) 屋号「伊場仙」「団扇堂」「団仙堂」 堀江町1丁目五人組持店 団扇問屋
10代目三郎より屋号を「伊場仙」(いばせん)とする。

安政2年(1855年)

安政の大地震 世継ぎを失う。

明治維新(1868~1889)

「幕府御用達」の仕事はなくなるなど影響を受けたが、浮世絵の版元としての仕事や暦の販売を行う。
13代目吉田直吉 準主力商品として暦表事業を押し進める。

大正12年(1923年)

関東大震災で、店舗焼失。

昭和9年(1934年)

株式会社 伊場仙 へ組織変更。

昭和20年(1945年)

第二次世界大戦 東京大空襲で、店舗は被害を免れる。

昭和51年(1976年)

14代目吉田誠男(よしだ のぶお)家業に従事する。

昭和60年(1985年)

14代目吉田誠男(よしだ のぶお)代表取締役に就任。 カレンダー事業を廃止。本業の団扇、扇子販売に専念する。

平成20年(2008年)

ウェブサイトを開設。

平成24年(2012年)

ビル1階に中央区のまちかど展示館事業による1階に伊場仙浮世絵ミュージアムが開館。

現在

江戸後期より扇子の販売を始め、団扇、扇子、和紙製品の老舗として現在に至っております。

当時の「伊場仙版」の絵は今では国内の美術館はもとより大英博物館、ボストン美術館、メトロポリタン美術館、ヴァンゴッホ美術館等海外の著名美術館でも見ることができます。

伊場仙の商いの考え方

弊社は日本の伝統文化、取り分け江戸文化の継承に力を入れ、製品のデザインには江戸のデザインや色を取り入れています。素材は厳選された国産の竹、和紙、繊維を使用し、これらを熟練した職人の手によって製品化しています。


また430年に亘る商売を通じ、人と人との絆を大切にし、お客様への信用を第一として、地域や社会に役立つ企業として日々精進しております。

浮世絵版元

版元の仕事

版元というのは、今で言うところの出版プロデューサーでしょうか。


浮世絵は木版で彫り、それを摺りますので、国芳や広重などの絵師にデザインを頼み、団扇絵を摺っていくうちに、浮世絵も摺れるので、本業は団扇屋ですが、浮世絵の版元にもなりました。


そこで、浮世絵を何点かご紹介していきます。そこに当時の版元と浮世絵師の関係、江戸の反骨精神を垣間見ることができます。

「源頼光公館土蜘蛛作妖怪図 」

(みなもとよりみつこやかたつちぐもさくようかいのず)

1843年(天保14)大判錦絵三枚続


大江山の酒呑童子(土蜘蛛)を退治したという源頼光が、土蜘蛛妖怪達になやまされている図。

大江山の鬼退治の絵は他にあれど、この絵は謎解き。ふせっている頼光の着物の柄がさや型、つまり十二代将軍徳川家慶ではないか、隣に控える武士の紋所から水野忠邦ではないか、後ろの妖怪のなかのどれが誰だという謎解きが始まり大反響。

水野の禁制政策に嫌気がさしていた江戸庶民は、こぞってこの浮世絵を買っていきました。

そして版元は伊場仙の文字。あまりの人々の熱狂ぶりに伊場仙は絵を回収、版木も削ってしまう手早い段取りにより、お咎めは無し。さてさて...

版元である伊場仙も、国芳の所属していた歌川派も、江戸幕府の御用を承っていたいわば、政府御用達。その権利が剥奪されることもなく、その前もその後も、反骨精神でを持ち幕府の批判も厭わない風刺絵を出版していくのです。



「荷宝蔵壁のむだ書」

(にたかべぐらかべのむだがき)

1847年(弘化4年)頃



天保の改革以来、役者浮世絵には出版差し止め令が出ていました。そこでなんとか出版しようと、絵師や版元は工夫していきます。

この絵は「これは浮世絵ではない。落書きだ」というわけです。

当時の人には、歌右衛門や幸四郎、梅幸が見て取れるのでしょう。真ん中のネコに至っては、二尾のねこまた。楽しそうに踊っています。

こうした遊び心こそ、贅沢に感じられます。

こちらは 釘絵(くぎえ)と言われ、国芳の手になる釘でひっかいた落書にもして書いた絵のこと。
他にも「白面笑壁のむだ書き」など役者似顔絵があります。

「みんなわらつているやうだ」「なるほどあいかハらづ」などの文字や「国よしゑがく」といった署名、版元伊場仙の印なども同様の釘絵の筆致で書かれています。今の漫画にも通じる痛快ぶりですね。

伊場仙の役割

このような、ユーモラスで粋な、また反骨精神のある江戸っ子気質。
古き良きものを今の時代にも、伝えていきたい所存でございます。


老舗の暖簾の持つ信用力で、伊場仙では江戸の文化発信をつねに意識し、伝統を守り伝えていくことは、老舗としての大切な役割だと考えております。